「あの未来に続く為」だけ、の戦いだった

私は2018年頃からの"復帰"ではあるが、その時に初めて作ったマシンはデクロス01だった。 最初から提灯を構えた少しガチな改造だったが(ここでは未紹介)5年で紆余曲折あって1番シンプルな形に戻ってきた。 カント以降のポストモダンな哲学、日本だと浅田彰をはじめとするニューアカブームが1980年代にある。 ミニ四駆とは関係ないと思いきや、タミヤの前ちゃんが書いた後のエッセイがニューアカ風ではあった。(今でも探せば読めると思う) そこでのミニ四駆のゲーム性はこう述べられていた。 「勝ったら実力、負けても運が悪かった」 まるで自責での一方的な負けはない。といった内容にも読めたが、これを改めて考えてみても良いのかもしれない。 SNS以降のポストモダンブームはもっぱら東浩紀さんが牽引していたが、ここではジャック・ラカンとジャック・デリダの"手紙"の話とする。 "手紙"といってもここでは本来の手紙という意味に限定してはいない。人間のコミュニケーション形式の一形態というか、いくつか成立条件があるとすれば ・音声(シニフィエ)は含まない事 ・対話は含まない事 ・もっぱら文章のみで形成される事 ・一度出してしまったら変更ができない事 恐らくこの4点だと思うが、この論争の争点は「手紙は必ず宛先に届く」のか?もしくは「宛先に届かない事もあり得る」(誤配の可能性)についてだ。 もちろん、興味のない人にとってはつくづく「くだらないゲーム」だろうが、よくよく見るとこの対立は"ゲーム"の実態をよく捉えているとも思う。 テクノロジーの進化でこの4つの条件は無くなりつつあるかもしれないが、"駆け引き"や"ゲーム性"の方はむしろ選択肢が狭くなっているんじゃないか?という事かもしれない。 (今日のビデオゲームはこれら条件が最早成立しなくもなっているので、昔を懐かしんでレトロゲームに没頭する気持ちも分かる) これはミニ四駆に例えると「手を離してコースに置いた瞬間から、勝敗は既に決している」とか「複雑系が絡むアクシデントはあるだろ?」という話になるかもしれないが、ミニ四駆に触れれば触れるほど、「両方あり得る」というビミョーな回答が思い浮かぶようになってしまったのが興味深い。 そしてSNSで紹介されるマシンたちはまるで手紙のように振る舞っているようにも見えてしまうんだろう。

2024/04/04 18:14:12

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