(少しシリアスな話に戻るが) 例えばカント哲学的な定言命法とコンピュータのコーディングを経験的に類比する。といった当欄での話題は今日でも文系/理系の対立やシンギュラリティといったものに一定の見解を提供するものだと信じている。 が、基本的に共に「"もし""そして""かつ""あるいは""あるならば"...etc」でチェーンしていくコーディング(定言命法)の形式なので、「突然宇宙から飛来した機械生命体がよく分からないお経を唱えている」のだと思われても仕方がない(笑)のであり、事実プログラミングに対する抵抗感とカント哲学に対する抵抗感はきっと同種のものである。 違いがあるとすれば「コペルニクス的転回」と言われているようにして、カントのそれはまったく倒錯されており、それは以下のような構文となる。 「もし、〇〇したいとアナタが願うならば、議論しなさい。」(純粋理性) 「そしてもし、〇〇であるべきだと(公共的な利益等の理由で)アナタが思うならば実行しなさい。」(実践理性) 「ただし、別の概念を用いてその真偽を判断しなさい。」(判断力) 以下ループ そしてこれから行おうとするコンピュータのコーディングは"これと全く逆の手順"である事に注意いただきたいのだが、以下のようになる。 「別の概念によって〇〇の真偽を判断せよ。」 「そしてもし、それが真である場合、〇〇を実行せよ。」 以下ループ 例えばもし判断→実行プロセスを繰り返すうちに、コンピュータが「〇〇したい」というような、感情や欲求を示すようになる。というのであれば、それはSFやマンガの話になってしまうが、とはいえ人間が「〇〇したい」と腹の底から抱くような感覚は...一体どこからやってくるのか誰もが説明できていないのである。 もっとも、カント以降の(ポストモダンな)哲学、心理学や精神分析を含めてもっぱらの関心はここにあり、無意識や欲望のような概念を駆使して、これを説明しようと試みたのであるが、今にして振り返れば「全て徒労に終わった」「十分に納得できるものが1つもなかった」のである。 これが文系不信につながっているとはいえ、繰り返すが、叡智的なものは不可能だと断定してはならず、しかも叡智的な感性から経験的な試金石を決して放棄しないように見張りなさい。という彼の直観には毎度度肝抜かされるばかりである。
2023/10/10 19:58:07