(このシリーズのまとめとして、以下の文句をイマヌエル・カントの『純粋理性批判』から丸々引用する事をお赦し頂きたい。) しかしわたしがここで目的としているのは、ある存在者が必然的に現実存在を証明することでも、この証明に基づいて、感性界の現象の現存について、純粋に叡智的な条件づけが可能であることを確証することでもない。 わたしが目指しているのは、理性が経験的な条件という〈導きの糸〉を投げ捨てたりしないように、そして具体的に表現することのできない超越的な説明根拠のうちに迷い込んだりしないように、理性に制限を加えること、そして他方では、純粋に経験的な知性の利用の法則に制限を加えることで、この法則が物一般の可能性を決定したり、叡智的なもの(叡智的なものはたしかに現象を説明するためには使用できるのであるが)をまったく不可能であると断定したりしないようにすることである。 だからわたしが示したいと考えているのは、すべての自然物はあまねく偶然的なものであり、自然物のすべての(経験的な)条件もあまねく偶然的なものであるが、このことは、わたしたちが[自由な]選択意志のもとで、必然的ではあるが純粋に叡智的な条件を想定することと両立しうるということである。またこの二つの主張のあいだには真の矛盾は存在しないこと、だからこの二つの主張は両方とも真であることもありうるということである。 このように絶対に必然的である存在者を、知性が考えるということは不可能なことかもしれない。しかし感性界に存在するすべてのものが一般に偶然的であり、依存したものであるということからは、こうした存在者が不可能であることは推論できない。さらに感性界の系列のいかなる項であっても、それが偶然的なものであるかぎり、それを最高の項とみなして立ち止まることを認めず、世界の外に[偶然的ではない]原因をみいだすことも認めない原理からも、こうした存在者が不可能であることは推論できない。理性は経験的な使用においては固有の道を進むのであるが、超越論的な使用においてもまた特別な道を進むのである。
2023/10/07 09:16:53